2012年7月24日火曜日

一年経過

 
 ザンビアへ来てちょうど一年が経ちました。

 異文化の中で生活し、その中で仕事をし、職場で一定の役割を担うということは楽しくもあり、またしんどいでもあります。一番頭を悩ませるのは「価値観の相違」です。私が当たり前であることは現地の同僚教師の当たり前とは当然異なります。時間への意識、生徒への体罰の是非、仕事への取り組み、人間関係の距離感等、挙げ出すと枚挙に暇がありません。そのそれぞれの場面で時折私と彼らとの間で食い違い、苛立ったり、悲しんだり、失望したりするわけです。その場面でどういう態度を採用するのかはまさに、「私自身が異文化とどう付き合うか」ということになります。ある人は半ば諦め、「何を言ったって何も変わらない」と思うだろうし、またある人は諦めずに根気強く接し続けるのだと思います。それらのうちでどれが正しいのか、正しくないのか、また適切であるのか、適切でないのかは私にはわかりませんが、私は少なくとも感じた事をそのまま伝えるようにしています。そして、お互いの妥協点を見出したいと思っています。それはお互いが最も心地よく生きることが出来る場を創りたいと思っているからです。

 例えば、私が異文化の中で住むが故に、とても悲しい出来ごとに出会った時、私はそれを我慢する事も出来るし、感情を爆発させて泣きわめく事もできます。しかし、私はそのどちらも「お互い」を志向していない点で同じ振る舞いだと思っています。我慢することには「こちら」がどう感じたかという視点が抜け落ちているし、感情を爆発させることには「むこう」がどう考えているかという視点が抜け落ちています。言うまでもなく「お互い」は「私(こちら)」と目の前の「あなた(むこう)」が含まれています。どちらか一方が我慢するのでは「お互いが居心地の良い場」を創出する事は不可能です。お互いの意見を聴きあい、妥協点を見出していくことが必要だと考えます。しかし、ここで言う妥協は足して二で割るような無原則的妥協・犠牲ではありません。与えられた条件の中で自分の信念、理想に出来る限り近づける努力(犠牲)を重ねた上でのギリギリの妥協です。つまり、自分はここまで、我慢するから、あなたもここまで我慢してくれというコミュニケーションを前提とした犠牲・妥協なのです。

 一年前までは端から端までに苛立ったり、また諦めたりしてきました。しかし、このように異文化で生きていく事の私なりの理解で一応のけりが付いてからはもう少し、前向きに同僚教師を理解出来るようになりました。

 こうした理解は二年という期間で、研究というマクロの視点を持ちながら、日々生活をしていくザンビアプログラムならではだと思っています。今はこれから一年また自分の考えが次々と変わっていくのではないかという期待にわくわくしています。